AOM対談:畑島楓×Kohyoh Yang(東京大学工学部建築学科)
-A differential equation of scapes-
今回の対談タイトルを直訳すると「風景の微分方程式」である。微分というのは空間や造形の数理的な解釈に基づいているという意味ではなく、誤解を恐れずに言えば、風景の中から設計を豊かにする要素をピックアップし、それらに拡大した解釈を与えることで場所や人のコンテクストを強く反映していこうという態度である。そういった意味では、國清尚之氏との対談(本誌18章に掲載)にも通じる感覚がある。また、本誌にて紹介する弊作品Listen Space Carefully(本誌10章)やRhythm Scape(本誌11章)では明確に風景を微分していくということを考えている。NEXT ISSUE(本誌16章)で紹介した今後二年間の弊研究計画にも同様の方針が含まれている。このように、Yang氏とは初めて会ったときから空間に対する問題意識を共有していた。
このような思考の枠組みを事前に共有していたのは単なる偶然ではないだろう。平成生まれの僕たちが強く共感するある種の世代感として、風景を微細に読み取り抽象化することなく表現する技法は数年のうちにひとつの流れを形成してきた。実際に、国内外の卒業設計や修士設計、若いグループによるプロジェクトなどににおいて微分の手法は芽を出し始めている。風景を微分するようにつぶさに観察し、それをノーテーションに置き換えるだけでなく実際に建築の設計にまでドライブしていく。そのような思考の枠組みを前提とすることが可能な今だからこそ、より深い議論ができるのではないかと考えた。そこで、今回の対談テーマを「A different equation of scapes」とした。あえて英語にしたのは、議論を国際的に水平展開することが十分に可能だと考えたからである。
Yang氏との対談は、ざっくりと「思考の変遷」と「四層四相」の二部で構成されている。前半の「思考の変遷」では、Yang氏がこれまで経験した二つの大学における建築教育を辿って微分という概念がどのように形成されてきたかを辿る。それは、多くの設計者が自分の学生時代を重ね合わせることができるかもしれないある種の戯曲である。平成生まれの世代感を共有できない方には、追体験するように読んでいただきたい。後半の「四層四相」では、実際の設計を題材に具体的なアプローチに迫る。そこでは、微分方程式のように風景を解いていく中で、理論と実際の狭間にある葛藤を伺うことができる。そのような設計の葛藤を通して、畑島とYang氏がお互いのリアルをぶつけ合う。ここで、畑島は「リズムスケープ論」を持ち出し、Yang氏は「四層四相」という理論を持ち出す。これは、お互いが独自に育んできた「微分方程式」でもある。微分という基本的な問題意識を共有しながらも、少しずつ異なるアプローチを持つ僕たちだからこそ、世代感を表象するような求心的な議論が展開可能となった。その先に、新しい設計論の地平線が見えてくることを期待したい。
(2017年3月12日)
【畑島】
この対談は同世代の活動を起点に様々な建築の可能性について議論することを目的としています。再帰的に、建築の射程について検証することができれば幸いです。Yangさんは以前から名前を伺っていたのですが、具体的どのような思考をしているのかについては全体像を把握できていません。今までの思考の変遷について簡単に伺えますでしょうか。
【Yang】
はじめまして、Yangです。畑島さんは、以前からTwitterでの活動を注目していて、この間はじめてお会いして。そこで、少しばかり作品を見せたのですが、そうしたら次の日にこのような対談がもう ”始まって”いて、およそ抜打ちですね。(笑)
いきなり思考の変遷について話す前に、自分がどのような分野について興味を持っていたか、話した方が良いかなと思うのですが、どうでしょうか。
【畑島】
とてもテンポのいいスタートでしたね。議論が冷めないうちに、対談として思考を拡張させてしまいたいという思いがありました。抜打ちでYangさんを観察することで、生の意見が伺えるのではないかと期待しています。
そうですね、この対談で初めてYangさんを知る読者のためにも、まずは興味から再度伺いたいと思います。
【Yang】
少し自分の経歴と関係してくるのですが、自分は建築学科に二度入っていて、一度目に入った大学はまさに建築学科というところでした。その時は自分も建築にしか興味がなかったので建築に没頭していたのですが、ある時、なんだかこの先に大きなスランプが待っているということを感じてしまって、「このままではまずい」と思い始めました。そういった理由で、一年だけ過ごした後に東京大学に入り直しました。元の大学がどこだったかは、対談の内容から推測できると思います。
東京大学では1、2年生の間は専門課程に進む前の教養課程で、自分の好きなように学べます。自分は理系でしたが、そこではクラスの先輩やサークルの友人の影響もあり、理系科目はそっちのけで現代思想や演劇、現代舞踏などに興味を持ちました。その頃は建築はあまりやっていなかったと思います。そうしているうちに二度目の建築学科に入っていくのですが、教養課程で人文系寄りのことをやっていたせいか、今では建築史や建築理論などに興味を持っています。
【畑島】
なるほど。僕はYangさんの最初の大学を知っていますが、対照的な両校の教育を体験したというのは大変羨ましい経験です。一度建築学科らしいインサイダーな建築教育に触れた後、今度はアウトサイダーな場所から興味のあることを辿っていった。その結果、再び建築の領域に接近してきたということですね。順を追って伺いますが、最初の大学にいた一年の間に何か設計演習のようなものはあったのでしょうか。
【Yang】
その初めの大学にいた時は、一年の頃は製図が中心でした。作品らしい作品を作ったのは在学中最後の課題で、ヴェネツィアヴィエンナーレ日本館の模型を作り、その中で、「日本的な状況」のインスタレーションを行なう、といった内容でした。また、それとは別に文化祭では、自分でストーリーを考えて実寸大でパヴィリオンを作ったりもしました。
【畑島】
一般的な建築学科の初頭教育といった内容ですね。ビエンナーレのインスタレーションやパビリオンのような、身体に近いスケールから思考を出発させるというのはよくあるパターンです。そこで考えたストーリーというのは、どのようなものでしょうか。
【Yang】
その時は身体やスケールなどについては全然考えていなくて、むしろ建築にどうやって社会の状況を反映させるか、といったことを考えていました。ヴェネチアヴィエンナーレ日本館の作品では、ちょうど震災直後だったということもあり原発をテーマにした作品になりました。パビリオンの方も身体やスケールとかではなくて、仏教をテーマにしたファンタジーに基づいたものでした。
【畑島】
身体スケールの課題でいきなり社会性やある種の政治性を持ち込んだわけですね。ビエンナーレの作品を提出したときの教員の反応が気になります。しかし、それを受け入れてくれる包容力もありそうな大学ですが。パビリオンは瞑想空間か茶室のようなものでしょうか。HPシェルの形状に捩られた外形が特徴的です。また、繊維の張り具合も密実ではなく、重層した印象を受けます。この設計では、仏教をどのように空間のインスピレーションにしていったのでしょうか。
【Yang】
ビエンナーレの作品では、教員に「生意気」だと酷評されたにも関わらず最高評価を付けられ、学校に保存されてしまいました。そういう校風です。(笑)
パビリオンはファンタジーとして密教の伝道師がいて、旅先で糸で曼荼羅を描いて、瞑想空間を作るというお話でした。そこから、曼荼羅の持つ特殊な対称性から空間を立ち上げたらどうなるか考えて設計しました。糸は全て一つながりで2kmあり、それらに規則を与えて模様を描くようにして、多角の木のフレームに「編むよう」にして巻きつけていきました。
[fig.1]パビリオン課題
[fig.2]パビリオン課題内観
【畑島】
現在でもそうですが、政治的な建築というのはあまり教員の世代にウケないという感覚があります。一方で、60年代後半〜80年代後半に建築学科を出た教員の中には空間に込められたアイロニーの力をひそかに信じている方が多いように感じます。その保存された作品を推したのは、昨年度退官された某教授でしょうか。
パビリオンの解説、ありがとうございます。パイプのフレームの組み方を見ると、幾何学的によくできていますね。伝道師の登場する仏教のファンタジーからナラティブに空間を叙述するというのは、今の思考にも繋がることだと思います。
【Yang】
そうですね。その作品を推したのはその某教授の弟子の教員です。年代は違うのですが、さすがお弟子さんということもあり、思考体系を忠実に引き継いでいると思います。一方、そもそも空間のアイロニーをいち早く建築に取り入れたのは磯崎新氏でした。ただ、当時は磯崎氏の著作は全く知らなかったので、影響を受けていたというわけではありませんでした。
そうですね。このパビリオンに限らず、幾何学やナラティブは今でもよく意識しています。
【畑島】
クリティークの様子が想像できます。磯崎氏の作品はまさに政治性と(非文学的ではあるものの)ナラティブだと思っています。初めてYangさんと話したとき、最初に連想した建築家でもありました。ただ、その著作に触れる前にアイロニーの類に手を出してしまったというのは、意図せずともニヒルな観察力を持っているということかもしれませんね。(笑)
東京大学に入学し直したということですが、そこでも設計や造形の初頭教育のようなものを受けたのでしょうか。
【Yang】
東京大学の教養課程では、建築的な課程と関係のありそうなものとしては、図学の授業と博物館のゼミがありました。前者で特に印象深かったのは円錐折紙で造形表現を行う課題です。円錐折紙というのは、円錐曲線(円錐を切った時に現れる、双曲線、楕円、放物線)を利用して曲面を折っていく折り紙です。それは幾何学的な思考とその表現の訓練であったように思います。
博物館のゼミでは、古今東西の有名建築の分析と模型の制作を行いました。出来上がった模型は大学の総合博物館に展示されます。今でも関わっているのですが、今までに4つの建築の分析と模型を作りました。それぞれについて話すと長くなるので割愛しますが、ここでは、初めて建築史という学問領域を意識するきっかけになったと思います。
【畑島】
造形演習や博物館のゼミなどは、一般的な初頭教育のようですね。二つの大学の初頭教育を比較すると、題材の選定に多少大学の色が出ていますが。その後、建築学科に所属し始めたのはいつ頃でしょうか。
【Yang】
その後建築学科に所属したのは二年生の後半でした。最初は基本的な課程を行い、その後に住宅の設計が始まります。
【畑島】
順を追って伺いたいと思います。まずは住宅課題について伺えますでしょうか。
[fig.3]幾何学造形1
[fig.4]幾何学造形2
【Yang】
住宅課題では、やはりストーリーを考えることから始め、そこからそれに相応わしい形態を与えていきました。そのときは数学者の家ということで、数学モデルから建築が作られるという設定にしました。簡潔に話しますと、四次元で成立する、超立方体とクラインの壺を組み合わせた構成となっています。四次元の断面として三次元の立方体が連続していき、その重なり合いの中にそれぞれ空間が生まれます。立方体が三つ重なっている何もない部分を中心として、二つの動線系が二重螺旋状に取り巻いています。その二つの動線系はパブリック(来客用)とプライベート(居住用)に分かれていますが、空間としては一つながりに連続しています。その数学モデルを基本とした上に、敷地の輪郭や都市の軸線などが反映されていて、数学モデルの空間内の各機能の配置に意味を与えています。
【畑島】
クラインの壺になっているということですが、それはトポロジカル的にクラインの壺の構成を基本としているということでよろしいですね。実際には建物として数学的な構成以外にも様々なファクターを含んでいるように感じました。それは、何もない部分を中心に敷地の輪郭や都市の軸線などが単一の空間に重ねられているからだと思います。むしろ、そこに四次元の断面を感じます。
敷地条件など様々なファクターを拾った場合、コンセプト(またはストーリー)に合わせて取捨選択したり特定のファクターに関しては表現の解像度を抑えるというのが一般的な設計の進め方だと思います。しかし、この作品ではそれぞれのファクターを拡大しながら単一空間上に重ねています。これは意図したことでしょうか。
【Yang】
はい、複雑な内部空間なので分かりにくいですがトポロジカルに構成しています。
複数のファクターの話ですが、当時考えていたこととしては、住宅には取り扱うべきスケールが、身体、建築、都市とざっくりと三つほどあり、それぞれのスケールが、共存しながら、つまり、重なり合いながら、デザインのルールを決定していくということを考えていました。ここで、「共存」ということについてもう少し詳しく話します。「共存」というと身体と建築と都市は同じ世界にあるようで、実は微妙に違う世界にあるのではないか、その微妙なズレがそれぞれを起点とした際の世界の認識の限界になるのではないか、ということを考えています。すなわち、身体は約2.9次元以下、建築は3.0次元、都市は約3.1次元以上のところにあるというような感覚です。一つの建築の中に複数の次元(=世界)が入り乱れている、とういうような考えです。
異なる複数のファクターについて、その表現の解像度を抑えるということはしません。むしろ、同一の要素から異なる次元の様々なファクターに変換されていく可能性として、表現を増幅していきます。そうすると、解像度が抑えられることの逆に、異なる解像度の可能性がオーバーレイされていき、どんどん過剰になっていきます。しかし、過剰さはどこかで抑えなければデザインとして、成り立たなくなってしまうので、ある時点でそこにストップがかけられます。
[fig.5]住宅課題1
[fig.6]住宅課題2
【畑島】
それは今回の対談の本題でもありますね。
トポロジカルな空間の数学的な面白さというのは居住者の私的な理由ですが、そこに重ねられるキューブの造形というのは建物としての物質的なファクター。一方で、内部空間には身体性に近い構成が重ねられたり、外形には敷地や都市を読み込んだ造形要素が重ねられます。先程言及された磯崎新は都市から撤退する際に、単一の建築は”都市のインテリア”でしかないと主張しました。個別の建築がコンセプトを表現したり身体性に適応したりすると、都市にとっては効力を失ってしまうということです。それは、Yangさんの指摘する約2.9次元から約3.1次元までの埋めがたい差異が引き起こすデザインの限界でもありました。極論を言うと、設計は都市サイドか身体サイドか、もしくはどちらも棄てて建物サイド(=都市のインテリア)に墜ちるのかを選ばなくてはいけません。
もちろん、約2.9次元から約3.1次元の間にはある程度の選択可能なレンジがあるので、身体性の解像度を上げたり、都市的な解像度を上げたりすることができます。それは一方で、どちらかの解像度を諦めるということでもあります。それでは都市と身体に断絶が起こってしまうので、異なる複数のファクターを解像度を抑えずに建築にしていくという設計のドライブの仕方が重要になってきます。Yangさんも同じ問題意識から出発していると思います。実際的な話になりますが、このような複数の様相を持つファクターを扱うために、独自に設定しているルールのようなものはありますか。(当然、ファクターを重ねることで過剰さが生まれてしまうのをどこで抑えるかという判断基準もひとつのルールだと思いますが。)
[fig.7]都市スケール1
【Yang】
その極論でいきなり対談の本題まで到達してしまったので、もう少し巻き戻して考えてみます。
まず、単体の建築が都市スケールに対して効力を発揮しようとすると、まず都市へ向かってある全体的な意味を限定して、そこから部分的な機能や形態を与えていく。そこではしばしば全体の意味を構成するのに軸線や結界など記号的なファクターが用いられ、象徴レベルの話が中心になってくると思います。このあたりの議論は既にケヴィン・リンチの『都市のイメージ』や『時間の中の都市』で議論されていることです。
一方、身体スケールで考えると建築のそれぞれの部分から実際の機能を考えて、そこから全体へ向かって均衡を取りながら組み上げていきます。ここでは、あくまでも物質的な機能が先にあって、意味はそれに付随して説明的なものになり、実用レベルの話が中心になってくると思います。クリストファー・アレグザンダーの『都市はツリーではない』や『パタン・ランゲージ』などが近い議論かもしれません。
いずれも設計の出発点が離れており、そのプロセスは両極端のアプローチです。先ほどの畑島さんの極論では、そのどちらの出発点を選ぶか、を述べていると言うことができそうです。その選択ですが、自分の場合は住宅課題の頃は無意識だったかもしれません。しかし、双方向からやっていると思います。その時二つの設計ベクトルが交叉する点がどこかにあり、そのベクトルの比重が解像度の話に、その交叉点の範囲の想定が、先に述べたファクターの調停の話に繋がってくると思います。そのような話でよろしいですか。
【畑島】
そうですね、ケヴィン・リンチとクリストファー・アレグザンダーがそれぞれ3.1次元と2.9次元からのアプローチに対応するという解釈には基本的に同感です。もっと分かりやすい例でいうと、ジェイコブズとモーゼスと対応させることもできますが、要するに、現代に至る決着の着かない問題だと思います。当たり前のことですが、現状の一般的な設計手法では「身体」と「都市」のどちらからアプローチするかという判断基準が建物の規模に依存しています。ビルやショッピングモールは都市的な輪郭から細分化を繰り返すことで空間になっていき、住宅などは身体性に象られた細かなファクター(ほとんど家具的と言ってもよい)から建物の輪郭が決まっていきます。プロセスのみに着目した場合も、トップダウンとボトムアップという真逆の性格を有しています。そこでは、前者を採用するとレジビリティの高い建築になり、後者を採用すると気持ちのいい身体性をセミラティスに構築することができる。Yangさんの言うように、一般的な手続きの中においてはどちらかを選択しろという「極論」のような状態になります。
二つの設計ベクトルの交叉点の位置(比重)が解像度、交叉点からの範囲がファクターの調停という認識でいう解釈で合っています。そのような前提で話を伺っていきます。双方向から設計を進めるとはいっても、スタディの中で「身体vs都市」というよりも、同時平行で二つのスタディを次元の違うものとして進めているような印象を受けました。
[fig.8]都市スケール2
【Yang】
住宅の時は双方向にパラレルにやっていますね。調停するのに、一方のベクトルにもう一方のベクトルを重ねて、その絡まるところが、幾何学的なバランスによって保たれています。それは、身体的にも都市的にも意味のあるような幾何学です。当時は、複数案作り互いを比べて、選択していきました。選択する時には、そこにきちんと意味が生じるように選択していて、美学的というよりかは論理的な基準だったと思います。
【畑島】
具体的な話をするために、お互いに作品を提示していきましょう。
本冊子AOMの11章に〈Rhythm Scape for School Works〉というリサーチを載せています。詳しくは11章をご覧頂きたいのですが、簡単に説明すると「巨大なオフィスを設計すると町のスケール感に影響するので、徹底的に分節していこう」というものです。住宅街ぐらいのスケールで構成されている町にビルを建てることで、空間的なショックが起きるからです。実際にどうやって分割したかというと、町の建物の横幅と高さを全て採取し、寸法の偏差表を作りました。偏差という発想がル・コルビュジェのモデュロールの概念と似ているので、これを「建物のモデュロール」と呼んだり「リズムスケープ」と呼んだりしています。何故このリサーチを引っ張ってきたかというと、相対的にアプローチの差異が見えやすいと思ったからです。僕の「リズムスケープ」の場合は、同じ次元で寸法の適用と全体のヴォリュームの決定を反復しています。同じ同時並行でも手法としては立体感をもたないアプローチです。一方で、Yangさんのアプローチは反復ではなく(ファクターの)立体的な重ね合わせによる同時並行を感じます。この点についても、意見頂きたいです。
【Yang】
畑島さんのプロセスの場合、設計された建築のヴォリュームと実際に相対する建物のヴォリューム間を「リズムスケープ」という調査観察手法が行き来していく訳ですよね。それは同じヴォリュームの反復という点で同一次元・階層上にあるという意味で平面的であるという理解でよろしいでしょうか。
【畑島】
はい、手法として立体的かどうかの話で合っています。リズムスケープについては寸法感などをトップダウンとボトムアップの両面から調停していきます。その性格上説明しやすい手法論で簡単な転用が可能になると思っているのですが、扱うファクターが限定的なので立体感に欠けています。Yangさんの手法に触れた感想でもあり、この対談が浮き彫りにする私たちの相対性かもしれません。(笑)
【Yang】
設計のプロセスをまとめると、あらかじめ数学モデルを与えたら、そこに二つの方向性を与えることによってそれぞれから設計していき、両者にとって意味が生じるように幾何学を重ねていくといったことをやっていたのではないでしょうか。
【畑島】
着地点として数学的なものを緩く設定しているところに、これまでの作品の遍歴が現れているような気がします。幾何学というと、物事の形質を単純化したりコントロールしやすいパラメーターのレベルまで解像度を落とすという印象を受けます。今回の対談テーマ「A differential equation of scapes」が風景の微分方程式だとすると、風景を積分することで建築に落とし込んでいくイメージです。しかし、実際は次元を落とすことによって風景を取り込もうとするような作品には見えません。
立体的な思考であることを前提に話を進めますが、このように様々なファクターを立体的に扱いながら約2.9次元と約3.1を反復するルールのようなものを持っているのでしょうか?可能であれば実例などを踏まえながら伺いたいです。
【Yang】
住宅の時はそれに関して意識的ではなかったけれど、それが意識化してルールとして現れたのが、東京大学と前の大学の合同課題の時の作品でした。提示された課題は「都市のトーテミスム」というものでした。
読者向けに説明を加えますが、トーテミスムとは19世紀以来、《未開》社会のある社会集団と特定の動植物や無生物(トーテム)との間に交わされる特殊な制度的関係を指します。それが現代の都市においても、様々な形でコミュニティーを結びつけるものとして存在するのではないか、という説明を出題者から受けました。設計の指示としては、トーテムを選び、そこからコミュニティーセンターを設計せよというものでした。敷地は青山霊園に隣接する、窪地で、敷地の中央を高架が跨いでいます。
このときに考えたのが、青山霊園という特殊な環境(都心のビル群の中に広大な墓地が拡がる様子は不思議である)の元に、そこに集まる4つのコミュニティーを想定しました。そこから、各コミュニティーにとってのトーテムを選び、その間を建築によって繋いでいくことで設計を進めました。トーテムとしては生け花を考えました。ほぼ直感的に決めましたが、生け花の持つ死生観や宇宙観が、まさに青山霊園で想定するコミュニティーにふさわしいと感じたというのが主な理由です。生け花にも植物の種類があり、四種類の植物を想定します。詳しくは先ほどの関係性のダイアグラムを見てください。
ここまでの話を一旦整理すると、先に4種類のトーテムとコミュニティーを想定し、そこから先ほど述べた都市/身体の両方向から設計を進めていきます。トーテムとコミュニティを繋ぐものとして建築があることになります。先の住宅と異なるのは、単相ではなくて四相あることから、その四相がさらに複雑に絡まり合い調停点も多くなるということです。
[fig.9]四相四層のdiagram
【畑島】
なるほど、面白い課題ですね。設計のファクターを4種類のトーテム(=生け花)とコミュニティー(=霊園を訪れる人たち)に絞った上で、4つのファクターと4つのトーテムの両端(=身体・都市)からアプローチしていったということですね。合計で16通りのアプローチが単独の空間の中に重ね合わされているということになりますが、実際にはどのように設計を進めていかれたのでしょうか。
【Yang】
「トーテムとコミュニティを繋ぐものとして建築がある」と述べましたが、いきなりでは繋がらないので、住宅のように、都市、建築、身体といった約2.9次元から約3.1次元の階層が必要になります。今回はトーテムが植物でコミュニティーが人なので、その間に建築があります。つまり、単純に住宅と同じような階層の持ち込み方はできません。そこで考えたのが、建築の次元付近、約3.0次元付近を細かく考えていくことで、トームとコミュニティーを繋ぐ階層を与えることができる、ということです。そこでは、次元が小さい方から順番に環境、空間、材料・構造、機能という四層を考えました。つまり四相四層(4facets4layers)です。そしてその四層の両端、環境と機能、これらがそれぞれ「トーテム=植物」と「コミュニティー=人」と繋がっていきます。まとめると、<トーテムとなる植物→その生育条件にふさわしい環境→それを実現する空間→それを構築する材料・構造→そこから誘発される機能→そこから生まれるコミュニティ>というように繋がっていきます。あとは実際の設計において、それぞれ四相四層の各部分にふさわしい設計をしていきます。
[fig.10]四相四層のdiagram2
【畑島】
四層というのが身体と都市の衝突するレイヤーに四相というファクターを入れ込んでいく。非常に立体的な手法で、聞いていて大変興味を持ちます。もしよろしければ、ある層における「相」の取り扱いについて、具体的な例を提示していただけますか。
【Yang】
例えば、具体的に一相取り出してみると、風通しが必要な植物(ハーブ)を植えるので、環境として必要なものは風、それを実現する空間はチューブ、構築するのは線材である木材と鉄骨、そこから誘引される機能が生け花文庫(生け花表現物のアーカイブス空間)が誘引、そしてそこに生け花作家のコミュニティーが生まれるという、一相の四層の連続です。これが残り三相でも同様のことを行います。そうして、四相四層全て設計されたら、次に垂直的な層の調停点を、そこから水平的な相の調停点を設計していきます。
【畑島】
実は以前、この作品と課題について別の機会で伺ったことがあります。僕がYang君を初めて知ったのはこの時でもありました。本冊子AOMの11章2節(p29)を見ていただくと僕が興味を持ち始めた理由が分かると思いますが、同じ敷地を舞台に同じアプローチで設計をしたことがあります。それを第一回目の対談で登場した東京藝術大学の國清などと共に、平成生まれの最も若い世代からの問題提起として神田で展示しました。そのような経緯があり、同じ場所に同じような問題意識で立体的なアプローチをする同世代(すなわちYangさん)に刺激を受けました。この対談の裏コンセプトといったところでしょうか。
【Yang】
それは知りませんでした。この対談のカタルシスですね。(笑)
【畑島】
青山霊園は東京としては異例な虚構です。虚構ではありますが、ある種のサンクチュアリとして都市的な役割を持っています。そこに訪れるコミュニティ(=トーテムにおける植物)を四相として、別のレイヤー(四層)では空間のイメージやマテリアルの選定に対応させているというのは複雑なようで素直な回答だと思います。それは、この場所のファクターが多すぎて、平面的な手法では解けなくなるからです。
ちなみに僕は、AA schoolの課題とオフィスビルの設計に続くリズムスケープの考え方を利用した三つ目の作品として、青山霊園の護岸壁に商業施設と住宅のコンプレックスを設計しました。そして、立体的に解釈しないことの困難を味わいました。その作品自体は11章2節(p29)に、調査の過程は5章から6章(p9-p14)に掲載しています。困難の大きさが伝わると思います。笑
Yangさんの四相四層によるアプローチでは8つの起点から12方向への立体的なアプローチ(先ほど述べたベクトル)によって、16のファクターを扱うことができます。ここまで複雑なモデルになると、都市的なトップダウンと身体性からのボトムアップの交叉点が面的な広がりを持ちます。最初のほうに2.9次元と3.1次元のレンジの設定について伺いましたが、この図が回答になっていると思います。
ここからは全く知らないYangさんの設計論の話になるのですが、四相四層から空間の方向性を定義していった後は、わりと自由に設計しているのでしょうか。都市的にも身体的にも成立するルールを立体的に設定した後は、その枠組みの中で設計をドライブしていくというような進め方に見えます。
【Yang】
実は、当初はこのモデルに時間軸を加えて四季のファクターを加えていくというアイディアもありました。その場合、四季・四相・四層になり64ものファクターを扱えます。さすがに多すぎるのでコントロール不可能になりますが。(笑)
ちなみに定義した後は、そこから先は言語化可能で統一的なロジックが途切れています。そこには個人的な嗜好も関わってくることもあり、暗黙の見えないルールによって設計が進んでいくとしか言えません。強いて言えば、日の当たり方、周辺に相対した時の傾斜など、場当たり的なルールと言えるでしょう。実際の設計においてはこのプロセスが半分以上を占めていきます。それがドライブというのであれば、その通りです。
【畑島】
そのように、ファクター自体を増減させるのではなくファクターを扱うレイヤー(=層)の数をコントロールすることによって解像度と現実的に設計に掛けられる労力を調整しているというのは今回の対談の大きな発見でした。ファクター自体を増減させるとリサーチや設計自体がかなり恣意的になってしまうので、そこに頭を悩ませる学生も多いと思います。そうやって空間をロジカルにコントロールしながらも、やはり最後まで同じアプローチを徹底させるというのは現実的ではありません。四相四層、またはリズムスケープの理論によって都市的でありながらも身体性のある設計に集約させていけば、そこからはある程度表現のレンジがあります。逆に言えば、何をやっても枠組みは壊れませんよね。(笑)
【Yang】
そうですね。
【畑島】
そのような点では理論を共有していると思います。ロジックによって都市・身体に根ざしたときに現れる作家性と、そのロジックがドライブしきった後に調整作業のように設計していく作家性。設計プロセスの中で二度だけ恣意的なコントロールが許されます。
さて、対談も終盤ですが、今後の展開や建築論の射程について教えてもらえますか。Yangさんはあまり思考のブラックボックスを明かしたくないとは思いますが、可能な範囲で紹介してください。
【Yang】
大学の色もあると思うのですが、この対談を通して振り返ってみると、一度目に入学した大学では手法としてのナラティブが中心でした。二度目に入学した東京大学では、ロジックを組み立てるという方向にシフトしていたように思います。では、今後の課題として、ロジックとナラティブを掛け合わせていくと、もっと大きなテーマまで建築的に扱えるのではないか、ということの模索を考えています。
【畑島】
ナラティブにロジックを解いていくというのはあまり想像が付きませんね。両者が融合したところにどのような設計論のアウフヘーベンが起こるのでしょうか。両大学を経験したYangさんならではの回答が気になります。今後の作品制作と共に、成熟に向かう理論への期待感が止まりません。
今回の対談は手法論の中でも狭義に議論する内容だったので、かなり求心的な議論ができました。刺激的な対談をありがとうございました。
【Yang】
こちらこそ、今までの手法論を整理できたこともあり大変勉強になりました。
どうもありがとうございました。
以上
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